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la nina~


エル・ニィーニョ現象というのがあります。南米の太平洋岸の地域の海水温が12月末頃低いと、北半球に冷夏と暖冬をもたらす−と言うような事です。まあ確認されてからそれほど経っているわけではないので例外も在ります。ちょうどクリスマス頃に確認されている為、イエス・キリストにちなんでEl Nino(ñ-nの上に〜がつきます−幼い男の子)と呼ぶようになりました。ところでこれとちょうど逆の現象−海水温が高くなるということもあります。この場合は北半球で酷暑と寒い冬をもたらすようです。そこで逆の現象なのでこちらをLa Nina(ñこれもnの上に〜がつきます−幼い女の子)と呼びました。しかしこのラ・ニィーニァって語源たどれませんよね?海水温とも季節とも女の子とも全く関係ないのですから。ましてや気候とはもともと関係ないわけですから。
ここではそんな感じの今ではちょっと繋がりがわからなくなったものを取り上げてみたいと思います


詰め襟

「バスーカヴィルの犬」を読んでいてホームズが襟だの袖口だけを交換するという一節があって随分と便利な!システムだことと思ったことがありました。ところがどっこい詰め襟というのはそういう流れを受けたものだったんです。例の白いプラスティックの細長い奴です。あれって芯じゃないかと思っている人、結構いるんじゃないかと思いますが、あれ襟です。といっても詰め襟の襟じゃありませんよ、シャツの襟です。シャツ?シャツです。といっても私学は別にして公立校だと大抵詰め襟の下はワイシャツ(Yシャツって書き方もラ・ニィーニャァですね。でもホワイト・シャツが正式といってもこれも和製英語だし・・・。いわゆる折り衿のシャツです)を着ています。屋上屋って奴です。もともとハイカラーなシャツ−シャツバンドがあるもの−に詰め襟を着る。でこのシャツの襟の管理が面倒くさいというだらしない理由でこの白襟だけをセルロイドとかプラスティックで代用したんですね。なおかつ襟を詰め襟側に留めてしまうという強攻策に出た。あの狭苦しい中に留める為のフックまで付けて。で襟なしシャツは用意するのが面倒くさいし−大体教師なんて政治くらいしか興味ないから手ごろなYシャツで代用しておけば良いという有り様。

整理してみましょう。もともとあの詰め襟の中には白い布の襟が一枚在るだけ。それっきり。ところがだらしない理由から詰め襟にプラスティック襟を入れてフック付けてなおかつ折り衿のシャツを着せる。それでなくとも成長期だから首周りなんて日毎に太くなる。もともと余裕のない作りに詰め襟(それはそれでもともとはお洒落だった)にダラシナイ連中が寄って集ってだらしなくなるようにしたっていうのがあの形なんですね。

前フックなんてかけられやしないよね、きつくてさ。教師も頭つかって欲しかったね、政治以外にも。


バブル・バブル・ホリデー

もしあなたが1968年頃、立川談志司会の「笑点」を見ていたとします。5時20分から始まり6時少し前に終了。さて次に何を見ます?そんなにテレビ漬けになっていない?まあともかくどうしたでしょうか?6時30分からは「サザエさん」を見るという手も在ります。
それともこのままチャンネルを変えずにいますか?そのまま見ているとあなたはあの「シャボン玉ホリデー」を見るはめになります。

1970年代の初め頃、「8時だよ、全員集合!」を一時的に休んで代わりにクレージー・キャッツが「8時だよ、出発進行!」をやったことが在ります。全員集合が激務であるし、クレージー・キャッツも少しは人気を挽回して欲しいといった思惑も在ったのでしょう。ドリフターズの動きを中心とした下ネタもある笑いがなんとなく物足りなかった僕はこの試みを結構歓迎していました。案外そのままクレージー・キャッツが定着して・・・・。そんなことはありませんでしたね。改めてドリフターズの良さを再認識したくらいでした。いや年齢的にもかなり上のクレージー・キャッツにあの動きを中心とした笑いをやらせることの無謀さ!しかも笑いの質がもともと違ったにも関わらず・・・・。何回か目に多分視聴率が上がらない梃入れにドリフターズを絡めるという手に出ました。客席にドリフターズのメンバーが現れ出して、そしていかりやさんが時計を見て「8時2?分だよ!全員集合!」との掛け声でいつものテーマソングとともにステージに上がっていく。この時の客席の盛り上がりかたといったら。

1970年代入ってからのクレージー・キャッツはかつての反動なのかまるっきり評価されなくなっていました。まあやることが裏目にでているということも在ったかもしれない。渡辺プロダクションは日本テレビと仲たがいしているし。久しぶりにプロモーションをして出した「これで日本も安心だ!」阿っているというのかいかにも新聞が書いているようなことを歌っているというかこう言っては何だけど実に駄目なんな感じだった。もっともこの駄目な感じというのはある意味では正直な当時の姿だったのかもしれない。

再評価というよりは歴史を記という形で小林信彦(中原弓彦)さんが書き出していたのは1973年頃。大瀧詠一さんの「ゴー・ゴー・ナイアガラ」でクレージー・キャッツを取り上げたのは1975年頃。サザン・オールスターズがステージで「お父さん、おかゆが出来ましたよ」というコントを挟んだのは1979年には見たし、「ダディ・竹千代とおとぼけキャッツ」の名前の由来はクレージー・キャッツだったと知ったのも同じ頃だったと思う。「シャボン玉ホリデー」が1972年までやっていたことを考えれば大して時間が経っていたわけではないのだけれど、活動中に遺物化されていったというのか。(未了)


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