ONLY a HARRISONG dark horse '71 1973 - 1976 1979 - 1987
ONLY a HARRISONG

dark horse '71

1970年12月、"Wonderwall Music"や"Electric Sound"といった新しいけれど親しみにくいソロを作っていたジョージがメインストリームの充実した曲を一挙にリリースする。もっとも、ジョージがインド風の曲調から脱したのは1968年にインドに行ってから。"The inner light"をレコーディング後リシケシュのマハリシ・ヨギの瞑想キャンプに参加する。インドに行くことによってアーバンな作品が生まれた。1968年には"While my guitar gently weeps"や"Piggies"、翌年には"Something""Here comes the Sun"といった彼の代表的な作品がうまれ、1970年にこれまでの憂さを晴らすがごとく3枚組のAll Things Must Pass をリリースする。楽曲は質も高く、演奏もいい、大ヒット曲まであった。その上レコーディング中に行われたジャムセッションを"apple jam"として収録したの洒落ていたし、通ぶったロックファンの心も掴んだ。

ジョン・レノンはドリーム・イズ・オーバーと歌わずには新しいスタートが切れなかった。ローリング・ストーンのロングインタビューでかなり強引な形でレノン・マッカートニーを腑分けし、全ての曲をもう一度やり直したいとまで言い切る。1969年くらいからのヨーコとの活動に肯定的だったレノン・ファンも少々鼻白む。"john lennon/plastic ono band"は強烈で優れたアルバムではあるものの、セールスではジョージに負ける。

ポール・マッカートニーは殆ど一人でデモテープのような作品を作り、なまじ売れただけに評価を落としていた。一人でやるとあんな物なのかというファンはもとより、ホワイト・アルバムには殆ど一人でやったものだってあったのにというファンまで幻滅させる。ビートルでないソロを作ろうというのはポールにとっては並大抵の事ではなかった。そのうえジョージの新曲がヒットしているそのさなかにメンバーを被告にパートナーシップの解消の裁判を起こすという巡り合わせだった。

ワークスチームを置き去りして、コスワースの8バルブ・エンジンを積んだ車がいきなりトップに躍りででそのまま差を広げながら周回を重ねる。ジョージの活躍はそんな痛快な感じを与えた。

ビートル・マッカートニーは1973年ジョージ・マーティンと組み"Live and Let die"でしっかりと曲を仕上げ、漸くポール・マッカートニーをスタートさせる。

ビートルズ解散から約3年位、少なくともミュージシャンとしての評価はジョージが一番高かったのである。↑

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