晴交雨獨 No.27 | prev | next |

限界

例えば日本がラグビー・ワールドカップで優勝しないから駄目だという人はいない。体力、歴史、など様様な点でまだまだ追いつかないだろうと思っている。それはフットボールでも同じこと。また陸上の100mで金メダルを取らないといって嘆く人はいない。それぞれ国によって向き不向きの競技があるということを知っている。運動競技にはそういったある種の共通認識がある。また音楽の世界でもビルボードのトップ10になるような楽曲を日本人が作らないからといって不当な評価を受けることはない。まあ言葉の問題があるにしてもインストルメンタルの曲でもそれほど目覚しい成果を連続してあげることに成功していない。ところがテレビ中継となると丸で日本人に世界に伍していける能力があるかのような幻想にとりつかれてしまう。

公共放送ではそれなりの中継が出来ているのにということらしいが放送形態によって制約が生まれる。日本人の中では優秀と思われる人達が日々研鑚に務め精神誠意、刻苦勉励、万策を尽くして中継している。少なくとも現状ではあれが日本人の限界である。あれ以上は不可能といっても良い。確かに100メートルの競争に例えればスタートを映さずにレース前の情景や音楽を流し、20m過ぎくらいから中継を開始して、その間もレースはスタートが如何に大切であるか、タイムはどのくらいになるのか、そのタイムが如何に重要なであるかを訴え、それに加えてランナーの誕生日や親類縁者の消息、次ぎに放送する番組の内容の紹介が行われ、80m辺りでしばしば中継が終了する。結果は2時間後位のニュースで確認して欲しい旨の親切なコメントが付される。確かに結果は大切だがしかしそれ以上にプロセスを重視したいというスポーツに対する姿勢の表明と見ても良い。あれが限界である。彼らは考えられる全てを尽くしてやっているのである。重ねて言うがあれ以上は日本人には無理だ。将来「脳」の研究が進めば日本人にはスポーツ中継に関わる器質で発展途上にある部分が明らかになるだろう。

aug.01.2003
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