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あやふや

最初は脱亜入欧をもじって「that's a new oh!」というテーマで始めたのですがどうも気に入らない。中途半端で座りも悪い。加えてこの項目で書き始めてみると共通するものが見えてきました。それが「あやふや」。

「旅路の果ては恋人同志の巡り合い」だなぁと思う。とりあえずほとって置こうとおもっていてもやはり必ず考えなければならないこと。

モスクワ・オリンピックの不参加にはいまだに苦い思いがある。結論というのか結果の出し方というか個人個人の在り方というか。「あやふや」に考えていたのは事実。まあオリンピックくらい参加できるんじゃないかと思っていた。ほんとの所、USAも政治的な揺さ振り策として利用している風があり、完璧に不参加になるとは思っていなかった。

ただ実際に一番印象的だったのはこの事を話した、カナダ人やイギリス人の留学生のはっきりとした意見だった。たまたまということもあるし、少なくとも日本に来ているんだからということもあるのだがら、と割り引けるのだが、しかしそれは関係ないというの気がしていた。

例えばカナダからの学生は「コミュニズムは悪だ」ということだった。「ソーシャリズム」と最初いってから、いやイギリスやスウェーデンはソーシャリズムだと言い直していたけど。ミーシャ(マスコットの熊)は可愛いけど、それとは別だとまあ明快。一方イギリス人は「スポーツと政治は違う、運動競技がある意味国家間のガス抜きにもなる」くらいのことはいっている。それに比べるとこっち側の意見というのは日和見というかあやふやというか周りを上目遣いに伺っているというか情けないものだった。

正直な所、モスクワには行けば良いと思っていた。USAの言いなりになっているというのも腹立たしい。但しかなりいろんな問題をクリアにしていくべき問題がある。もっとも防衛の問題ついてだった、そんなものは自前でやれば良いと思っていたし、必要な核兵器だって装備した所で構わないとは思っていた。

ところがこの防衛ってことを周りにに聞いてみてもこれが揃いも揃ってアヤフヤ。この国の人に多い事勿れ主義、というより勝ち馬に乗りたがる傾向が強いというか自分の意見を言うと損する、というタイプが圧倒的。大東亜戦争だって終わってからはみんな被害者面だったけど実際の所自分の意見なんて言わないで勝ち馬に乗ってやろうの事勿れ主義が大半だったんじゃないか。まあ脅されていたというのも本当だけど、庶民は小賢しく立ち回ろうとして、で不正に反旗を挙げるなんて滅多に無いから流れに任せるしかないのもこの国のあり方だけど。

護憲?

アメリカの主導により第二次世界大戦が終戦され日本国憲法が作られたというのは事実。しかし1951年の警察予備隊を作る辺りからアメリカは日本の憲法を改正しようと考えたと思う。日本が暴走しないような監視する部分を残してなおかつ国軍を持てる方向に改正させようと考えていたと思う。それゆえ日本側のあの強力な反対はアメリカには理解しにくかったのではないだろうか?アメリカの教育の所為で日本が骨抜きになったという人もいるが、僅か6年でここまで変るということが在るだろうか?ほんとにアメリカの教育だけで日本人が軍隊を否定することなんてあるだろうか?

純然たる平和主義という人だってもちろんいると思う。でもそういう人は実際軍事だの防衛だのに精通せざるを得ないだろう。ある種の緊張関係がないと平和は維持できない。さもなくば圧倒的な軍備をして上から押さえつける形で平安を維持するという方法を選ぶということになる。

一方、日本人はほんとにあの憲法の理念を信じているのか?侵略ということを本当に悪で在るということならすぐさま不参加を表明していい。憲法9条を護憲の旗頭にしている人ならあのソビエトの行為に対してはっきりと不快を表明しても良い。でもこういう時に妙に政治的というか変に気を回したような発言をする。ソ連に気を遣っているのか?オリンピックに政治を持ち込むななんてことも言っていたがこれもまた変な感じだ。イギリスやフランスは五輪旗を掲げての参加というそれもまた、分かったようなわかんない形では在るけどともかく参加するということだけははっきりしている。不思議なのは結局不参加になったときも唯々諾々とアメリカには逆らえないという態度をとったことだった。本当は参加したいんだけどさ、という言い訳めいていた。その言い訳も煮え切らない感じが強い。選手に対する言い訳なんだけどね。しかしこれだって胸を張って日本は侵略に対しては断固抗議する!、憲法の精神を守るから、という立場ではないんだね。新聞なんてかなり優柔不断なことを書いていた。

実際いまだってあの憲法に書かれている理念の先進性を意識している人はいるんだろうか。ポール・マッカートニーがピースを維持するということについてのインタビューで日本は戦争を放棄するという進んだ考えをもっていて素晴らしいこと、ということを言っていた。で、これをありがたいなぁ、全く我々はこういう素晴らしい理念を持っていることが誇りなんですという日本人は何人くらいいるのかな。

あの憲法の理念に誇りを持てない。ところが具体的に誇りを持てるようなものを考え出さない。どっかに自分達にぴったり来るような素敵な国家があってその理想のスタイルに合わせたいのっていうなんか変なオトメチックな妄想を持ってんじゃないのかなぁ、あの普通の国って話をする人たち。頭金髪にして目に青いコンタクトを入れて、フランス語話している、そんな感じがする。

ほんとの所、ただたんにこの国の在り方に誇りを持てれば、あぁも国旗だ国歌だというのは変だと言うことがわかりそうなもんだけと。こういう旗だからとかこういう憲法だからとかこういう兵器持っているからというよう事で誇りを持つわけじゃないだろうに

北方領土のこともあるし、漁業権のことも在るわけだからそうことを荒立てることもないだろう、かといってアメリカ合衆国に対立してまでオリンピックに参加するのは困る。な、分かるだろう、このキモチ。いやー確かに選手の皆さんは努力された。でもね、いろいろ在るんだよ、オジサン達もさ。な、だから今回はとりあえずこの辺で手を打ってくれよ。

国民を大切にしない

「普通の国」では捕虜になるくらいなら死ね!なんて事は一切言わなかった。如何に脱走するか、なんなら撹乱しろ、という考え方である。「スイスは鳩時計した生み出さなかった」なんて引用をする人がいるが、その意味じゃ日本ではどうころんでも「大脱走」のような映画は作れなかったね。大体玉砕というのは余程の事がない限りしない。つまり「1億玉砕」なんて死んでも(^.^)言わない。竹を割ったような馬鹿な国民は他にはいなかったということになる。戦乱の続く地域では下手するとほんとに全滅しかなねない。如何に生き残るかというが重要な使命でもある。まあ戦争慣れといってもいいかもしれないが。付け加えるなら自国民の生命が鴻毛だの紙だのとも言わなかったはずである。大体鴻毛なんかを守る必要があるだろうか?最近でも邦人が人質になると戦前なら大変なことになるといっているが、補給も考えずに殆ど片道切符で前線に送り出していた国がそんなに大層なことをしたのかな。事変のキッカケにしたに過ぎなかったと見るべきだ。

ヨーロッパからアジアの大陸まで有象無象の民族の固まりの中で他と別れるためには戦いが必要だったし、別に軍隊という前からそんなものは存在していた。ローマ帝国もアレキサンダー大帝も蒙古もトルコも十字軍も西から東まで侵略と蹂躪を繰り返した。世界征服ってことがほんとに目標だったろうし。

近頃いわれている「普通の国」って言うのは国の存立と軍隊が不可分だよね。国軍の最大の目的は基本的には国民を守る。他国の侵略を防ぐということの意味は国民の基本的人権-という概念がないうちも権利や自由を守ることだった。財産も含めて全てが収奪される可能性も在るわけで、下手すれば国自身が消滅する可能性もある。国民は奴隷になるかもしれない。しかも国境を接している国では国民を大切にしなければ正に国を失う。自国民が隣国に寝返る事だってあるし、侵略されたときに協力的に成る事だってある。

この辺りの事情が日本は違っている。日本はこういう流れとは無関係に独立していた。巨大な力に抵抗して独立したのではなくってなんというかもう四方が海に囲まれて、その上地の果てだった所為も在って確立されていた。長い間中国は国内を制することに懸命だったし、朝鮮半島は中国の(勢力争いですね、実際は)が脅威であってとても南下することは出来なかった。黒船以来漸く軍隊を作ることになったけど、どうも日本では国民と対立した存在になり勝ちだった。もちろん中には軍事政権といった明らかに国民との対立して存在している国軍も在ることはある。

慣れていないという点ではもう一つ。精神力。戦闘場面における精神力の無さは当初から問題だった。(だから、別に戦後の教育の性でオリンピックで負けるというわけではない。)「日露戦争」でも実際の戦闘の際に逃亡してしまうということが多かったらしい。これが重要問題として如何に鍛えるかということなった。「本当は精神力が強い」と言いつづけて、実はその気になった。ある種の洗脳?精神力だけは在るとおもった。ところがこれも本質的に変ったわけではなく、捕虜になるなら、死ね、残っても自決という風な形で自棄のやん八になっただけ。タフネスではなく闇雲。一時が万事窮鼠猫をかむ状態。これでは戦えない。

日本は純然たる平和主義かというとどうもそういう訳でもない。というより妙な好戦的言い方を好むのがこの国の人たちだった。たかが野球の親善試合を日米決戦といってみたり、わざと言葉を誤用して野球の敗戦原因者を戦犯(戦争犯罪人-ちなみにこれは勝った方が負けた方の責任者を裁く言葉で実質的には勝利軍に多大な損失を与えたものにこそこの称号は相応しい)といってみたりする。なんだか押さえつけれた欲求が変な形で現れているようで不気味だ。

「あやふや」はあやふやなりに2000年近くもやってきた伝統がある。スーツに合うように体型を変えようと気の利いたテーブルジョークを言おうとそんなことじゃ誇りなんて持てないんじゃないか?国歌の斉唱を仕方を机の上に足を投げ出してガムをクチャクチャ言わせている行儀の悪いアメリカ人達が体よく見せようとして条例で細かく設定したスタイルに合わせる必要があるだろうか?そんなことしてたら何年たったって誇りなんて生まれないとは思うけど。

「あやふや」な各論

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